梅本製作所の歴史

梅本製作所は、現所在地で昭和10年(1935年)に
写真機の製作所として創業しました。

創業者の 祖父 梅本金三郎のことからお話しいたします。

 梅本金三郎  略歴  
年号    (西暦)    年齢 おもな できごと  *完成したカメラ名
明治36年(1903年) ・ 2月30日 金三郎誕生
昭和10年(1935年) 32歳 ・ 梅本製作所創業
昭和11年(1936年) 33歳 * スーパーマキネットシックス 完成
昭和12年(1937年) 34歳 * スーパーマキネットシックス普及型 完成
昭和12年(1937年) 34歳 * ノイレシックス 完成
  (ノイレシックスの実物)
昭和13年(1938年) 35歳 * ベビースーパーフレックス 完成
  (ベビースーパーフレックスの実物) 
昭和14年(1939年) 36歳 * ベビースーパーフレックス(Ⅱ) 完成
昭和15年(1940年) 37歳 * ベビースーパーフレックスⅢ 完成
昭和16年(1941年) 38歳 * ベビースーパーフレックスⅢA 完成
昭和16年(1941年) 38歳 * セミマキネットⅡ、ⅡA 完成
昭和16年(1941年) 38歳 ・ 12月8日 アジア太平洋戦争宣戦布告
昭和17年(1942年) 39歳 ・ 価格改定  カメラ生産の原則禁止
昭和18年(1943年) 40歳 ・ 國産寫真機ノ現状調査に登録
  「國産寫真機ノ現状調査」についての考察
昭和20年(1945年) 42歳 ・ 3月10日 東京大空襲により工場焼失
昭和20年(1945年) 42歳 ・ 4月 梅本製作所 山形県山形市に疎開
昭和20年(1945年) 42歳 ・ 8月15日 敗戦
 終戦までに梅本製作所が作ったカメラの一覧表
昭和23年(1948年) 45歳 ・ 春 帰京
昭和28年(1953年) 50歳 * ロッキーセミ 完成
  (ロッキーセミの実物の一部)
   ロッキーセミの雑誌記事
  「ロッキーセミ」と「セミマキネット」の関係
・参考サイト
参考文献
 

 梅本金三郎 (うめもと きんざぶろう)

・明治36年(1903年)2月30日東京に生まれる。

2月30日生まれとは何だと思われるでしょうが、戸籍にそう書いてあるのです。

当時の戸籍係が2月20日を「2月30日」と誤って記載したものと思われます。

(昭和45年頃テレビ番組で2月30日生まれの人が紹介されていました。その当時で日本全国に数人2月30日生まれの人がいたようです)

梅本製作所創業者梅本金三郎 梅本英夫撮影

梅本金三郎

梅本製作所製の
カメラで撮影
(昭和30年ころ)


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・大正10年(1921年) 18歳  写真機関係の工場の職人になる

その工場は大判写真機の撮り枠(ガラス乾板用のフイルムバック)などを制作していました。

これが金三郎と、ひいては親子三代にわたってのカメラとの付き合いの始まりになりました。

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・昭和5年(1930年)  27歳  結婚

お相手は金三郎の「兄の妻のいとこ」だったのだそうです。

この頃から独立を意識して工具などを少しづつ集めていました。

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・昭和6年(1931年)  28歳  独立 (のれん分け)

東京市本所区横川で独立しました。
最初の工場から仕事をもらい下請けをしていたようです。

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・昭和7年(1932年)  29歳  暿光堂から
  写真機製作の依頼を受ける

金三郎の持ち前の手先の器用さを買われ写真機問屋の暿光堂(きこうどう)(東京市日本橋区小伝馬町一丁目一番)から写真機製作の依頼を受けました。

現弊社所在地の土地(東京府南葛飾郡亀井戸町三丁目八四番地)を確保しました。
そして、本所区横川の工場でカメラの設計や金型製作をはじめました。

また、工場の建設を昭和9年(1934年)に始めました。


梅本製作所 登記簿謄本

金三郎が暿光堂から写真機製作の依頼を受けたのをこの時期と推定したのは、写真で示す工場の「土地の登記」が「昭和7年(1932年)の4月になされていること」が根拠です。

そのころ町工場の職人が開業資金を蓄えるのはとても困難でした。また、当時「問屋」は、腕のいい職人を「抱える」ことが多々ありました。そして梅本製作所は創業の資金を暿光堂から借り入れています。

いわば金三郎は暿光堂に「抱えられた」のです。

おそらくこの前年の 「昭和6年(1931年) 金三郎 独立」 の時点で、暿光堂から本件について「打診」されていたものと考えられます。

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・昭和10年(1935年)  32歳  梅本製作所創業

東京市城東区亀戸町三丁目八四番地に工場完成、操業を開始します。
(この場所で、現在も操業を続けています)
始めはスプリングカメラから製造を開始しました。

また、この年長男の英夫(二代目・前 代表取締役)が誕生しています。

写真は昭和14年(1939年)の正月頃に工場の玄関で撮られたものです。
金三郎と長男・英夫(二代目)です。

梅本製作所 昭和14年正月撮影

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*昭和11年(1936年)02月 33歳 スーパーマキネットシックス
 (ボディ表記は MAKINET SUPER )完成

6×6判,4.5×6判兼用のスプリングカメラ
「スーパーマキネットシックス」
(ボディ表記は MAKINET SUPER ) が完成しました。(注1)
暿光堂から、
昭和14年(1939年)の4月まで販売されました。


*昭和11年(1936年)02月 スーパーマキネットシックス

形  式 蛇腹式スプリングカメラ
・ボディ上部のボタンを押すと、
たすき状に支持されたレンズが付いている前板がボディと平行に飛び出し、すぐに撮影状態に移行できる。
・「たすき」の伸縮により、レンズ全体を繰り出してピント調整をする (最短撮影距離1m)
・折りたたみ式透視ファインダー
・裏蓋に6×6(12枚)用のフィルムカウンターと、
4.5×6用の赤窓付き
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2016年03月20日追記
(注20)
日本カメラ博物館 特別展
展示機 理研光学製(現:株式会社リコー)
『キンシ(昭和16年:1941年製)』127ベストフィルム使用
も、同様のたすき型のスプリングカメラであり、
その説明に、
「類似の国産カメラとしては僅かにスーパーマキネットシックスがあるだけである」と記載されていました。
後述する梅本製作所製のノイレシックスも同じ機構を持ちます。
本機は『キンシ』に先んじること5年。
暿光堂の先見の目と、祖父金三郎の腕には驚きを禁じ得ません。
フィルム 120フィルム
画面サイズ 4.5×6cm/6×6cm切り替え式
(メタルシートのマスクによる)
ボディ アルミダイカスト製

・A型

レンズ ラヂオナーF4.5 75mm
シャッター ルレツクスA T、B、1~1/200
価格 65圓 (昭和12年4月)

2016年03月20日追記
レンズ ラヂオナー Radionar 1:4.5 f=7.5cm neuman & hellemenn(?)
No.830803
シャッター RULEX  T、B、1/5~1/200
の個体を確認しています。
たすきによるピント調整式です。
ボディシリアルは不明です。


・B型

レンズ ローザーアナスチグマット F4.5 75mm
Luasar Tomioka kogaku(富岡光学)
シャッター ルレツクス(RULEX)B T、B、1/5~1/150
価格 58圓 (昭和12年4月)

2016年03月20日追記
ボディシリアル番号「D301」の個体を確認しています。
なぜ「D」で始まるのかは不明です。
後述する普及型(D型)とはスペックが違うからです。
レンズはローザーアナスチグマットF4.5 75mm
Luasar Tomioka kogaku(富岡光学)製 N27116で、
シャッターはルレツクス(RULEX)B T、B、1/5~1/150
たすきによるピント調整式です。


速写ケース

価格 5.0圓 (昭和12年4月)

・同年11月 スーパーマキネットシックスB型 シャッター変更

・B型

シャッター ルレツクスB T、B、1/5~1/200
価格 不明

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*昭和12年(1937年)06月 34歳 スーパーマキネットシックス普及型 
  (ボディ表記は MAKINET SUPER )完成

6×6判,4.5×6判兼用のスプリングカメラ
「スーパーマキネットシックス普及型」(ボディ表記は MAKINET SUPER ) が完成しました。(注2)
暿光堂から発売されました。

レンズとシャッターを安価にしたもののようです。
したがって、ボディはスーパーマキネットシックスと同一であると考えられます。
ただし、普及型が 『「たすき」によりピント調整をする 』 かは不明です。
コストを下げるために、通常の「前玉回転式」だったのかもしれません。

昭和13年(1938年)の12月まで、販売されました。


*昭和12年(1937年)06月 スーパーマキネットシックス普及型(D型)

レンズ スーパーアナスチグマットF4.5 75mm
シャッター ルレツクスD B、T、1/25~1/150
価格 40圓 (昭和12年08月 広告に大きく「金四拾円也」とあります)

速写ケース

価格 3.5圓 (昭和12年08月)
(カタログ  送料共13銭)

・同年10月 スーパーマキネットシックス 価格改定

・A型

価格 73圓 (昭和12年10月)

・B型

価格 65圓 (昭和12年10月)

・普及型(D型)

価格 46圓 (昭和12年10月)

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*昭和12年(1937年)10月 34歳 ノイレシックス
  (ボディ表記は NEURE.SIX  SUPER )完成

6×6判,4.5×6判兼用の「ノイレシックス」
(ボディ表記は NEURE.SIX SUPER ) が完成しました。(注3)
「第一カメラ店」から、発売されました。
昭和12年(1937年)の10~12月にスポット的に販売されました。

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発売元の屋号が広告のたびに違っています。
 (同年10月「アルスカメラ」の広告は、内容が不明)
同年11月「アサヒカメラ」では「アイン カメラ ウオークス」
 (Ein Camera Works? 第一カメラ製作所の意か?)
 (大阪市南区安堂寺橋通四ノ六二)
同年11月の「新しい機械と材料」では「ノイレ カメラ ウオークス」
同年12月の「アサヒカメラ」では「第一カメラ店」
 (大阪市南区心斎橋北詰)
となっています。
おそらく「第一カメラ店」が本当の屋号だと思われます。
---

この「ノイレシックス」を,梅本製作所が直接「第一カメラ店」に販売していたとは、
梅本製作所の創業のいきさつからもとうてい考えられません。

祖父金三郎の性格をも考えあわせると、
「暿光堂」がこの件を「梅本製作所」の金三郎に依頼し、
「梅本製作所」は「暿光堂」に納品していたはずです。
そして、「暿光堂」から「第一カメラ店」に供給されたのでしょう。


本機の基本的な構成は、
「スーパーマキネットシックス」と「ほぼ同じもの」だったようです。

本機のスペックは以下のとおりです。
(レンズとシャッターの組み合わせで都合6型式あります)


*昭和12年(1937年)10月 ノイレシックス

形  式 蛇腹式スプリングカメラ
・ボディ上部のボタンを押すと、
たすき状に支持されたレンズが付いている前板がボディと平行に飛び出し、すぐに撮影状態に移行できる。
・レンズの前玉を回転させてのピント調整(通常の方式)
・折りたたみ式透視ファインダー
・裏蓋に12枚用のフィルムカウンターと、
4.5×6用の赤窓付き
フィルム 120フィルム
画面サイズ 4.5×6cm/6×6cm切り替え式
(メタルシートのマスクによる)
ボディ アルミダイカスト製

・A型

レンズ アナスチグマット・ラジオナー (75mm?) F3.5
シャッター ルレツクスA T、B、1~1/200
価格 90圓 (昭和12年11月)

・A型

レンズ ノイレ・アナスチグマット(75mm?) F3.5
シャッター ルレツクスA T、B、1~1/200
価格 70圓 (昭和12年11月)

・A型

レンズ ノイレ・アナスチグマット(75mm?) F4.5
シャッター ルレツクスA T、B、1~1/200
価格 60圓 (昭和12年11月)

・B型

レンズ ノイレ・アナスチグマット(75mm?) F3.5
シャッター ルレツクスB T、B、1/5~1/200
価格 62圓 (昭和12年11月)

・B型

レンズ ノイレ・アナスチグマット(75mm?) F4.5
シャッター ルレツクスB T、B、1/5~1/200
価格 52圓 (昭和12年11月)

・D型

レンズ ノイレ・アナスチグマット(75mm?) F4.5
シャッター ルレツクスD T、B、1/25~1/100
価格 43圓 (昭和12年11月)

速写ケース

価格 4.5圓 (昭和12年11月)

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◆「ノイレシックス」の実物が、
  祖母(金三郎の妻)の遺品のなかから発見されました。

祖母の弟が徴兵され「支那事変(当時の呼称)」に従軍する際に、
金三郎が持たしてやったものだそうです。
祖母の弟は戦地にて病死。
その遺品が戦地から祖母の実家に帰ってきていて、
そのなかに、この「スーパーノイレシックス」もありました。

それを戦後になって祖母がもらってきていたのです。

かなり状態が悪いのですが写真を掲載します。

左上,中央の写真に写っている、
巻き上げノブの近傍にあるボタンを押すと、
バチンといった感じで、
たすき状に支持されたレンズが付いている前板がボディと平行に飛び出し、
すぐに撮影状態に移行できます。

梅本製作所スーパーノイレシックス1  梅本製作所スーパーノイレシックス2  梅本製作所スーパーノイレシックス3

梅本製作所スーパーノイレシックス4  梅本製作所スーパーノイレシックス5  梅本製作所スーパーノイレシックス6

ボディ向かって右に「SUPER」、左に「NEURE . SIX」と型押ししてあります。

ボディはアルミダイカスト製で、6×6cm判用です。
本機は4.5×6cm判用の、薄いメタルシートのマスクが紛失しているため、
4.5×6cm判にすることができません。
4.5×6cm判用の赤窓がありますから、マスクがあれば変更可能です。

カメラ上部の折りたたみファインダーには、6×6用に加え、
4.5×6cm判用の視野枠もあります。
「スーパーマキネットシックス」用のものをそのまま流用したのでしょう。

ボディ背面の上部には4.5×6cm判赤窓が2つ、
背面右には6×6cm判専用のフィルムのカウンター(12枚撮)りがあります。
ここは本来「カバー」されていたものと思われますが、その「カバー」は欠落しています
(カバーをとめていたと思われる「ネジ穴」があいています)

レンズは、Fuji-ko Anastigmat Terionar 75mm F4.5
(前玉回転式  富士光学機械製作所製) が、
 シャッターは、レンズシャッター (ELKA-C 製作者不明)
T、B、1/25、1/50、1/100 が、
装着されています。(文献とは合っていません。理由は不明です)


---
シリアルNo.は「N1422」です。
レンズ横のテーブルスタンドを開けたところに刻印してあります。
「N」はノイレの意と推定できます。
また、シリアル番号の千の桁の「1」は捨て番号であったと聞き記憶しています。
この場合は、1号機が「A1001」,1000号機が「A2000」といった具合です。
そうとすると、本機は422号機ということになります。


すると、前記した確認出来た実機のシリアルが「D○○○」と3桁であるのが不可解です。
関係者が故人であるため、もはや確認のしようが無く、
「捨て番号」の件が不正確な記憶なのかもしれません。

あるいは、この『マキネットシリーズ(スプリングカメラ)』では、
型式のアルファベット1桁+3桁=4桁の通し番号でスタートした可能性もあります。
『マキネットシリーズ』は当初から『スーパーマキネットシックスA型』,B型……となっているので辻褄は合います。
つまり、1号機は「A001」,
以下999号機までは「A○○○」,1000号機以降は「A○○○○」といった具合です。
3桁~4桁の数字部分は型式によらず連番としたのでしょう。
そうとすると、本機「N1422」は『マキネットシリーズ』の1422号機ということになります。
この仮説の方が生産規模からいっても辻褄が合いますので、これを採用し生産台数を計算します。


先頭の捨て番号「1」は、
後述する『ベビースーパーフレックス』でだけ実行したのかもしれません。
この場合、1号機は「1001」,1000号機は「2001」といった具合です。
発見された『ベビースーパーフレックス』ではすべて4桁の数字のみのシリアル番号です。
先頭の捨て番号「1」は『ベビースーパーフレックス』でのみ行ったというこの仮説の方が、
辻褄が合いますので、これを採用し生産台数を計算します。
---


この個体は全体にかなりの部品が欠落しているようです。
(なお背面の写真はファインダーが外れた状態で撮影されています)

皮のケースは「スーパーマキネットシックス」用のもので、
ケース正面の上部に大きな文字で「MAKINET」、下に小さく「SIX]と型押しがしてあります。
(「スーパーマキネットシックス」と基本的に同一構造なのでケースが流用できたのでしょう)

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*昭和13年(1938年)05月 35歳 ベビースーパーフレックス
   (ボディ表記は SUPER FLEX BABY ) 完成

国産初の4×4判(ベスト版)のレンズ交換式一眼レフカメラです。(注4)
暿光堂から発売されました。

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2016年03月20日追記
(注20)
日本カメラ博物館 特別展では「暿光堂(きゅうこうどう)」と記載されていましたが、
正しくは「きこうどう」です。
暿光堂の倉庫の写真(戦後に撮影されたものと聞きました)を見たことがあります。
外壁に大きく「KIKODO」と書いてありました。


この初期型は、昭和14年(1939年)の5月まで販売されていました。


*昭和13年(1938年)05月 ベビースーパーフレックス

形  式 レンズシャッター式一眼レフカメラ
フィルム 127フィルム
画面サイズ 4×4cm
ファインダー ウエストレベルファインダー、枠型透視ファインダー付き(黒仕上げ)
ボディ アルミダイカスト製
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2016年03月20日追記
外装 焦げ茶の革張り仕上げ
(注20)
日本カメラ博物館
常設展示機「歴史的カメラ」(オリジナル外観)による実機確認
文献の広告はモノクロのイラストなので、色がわかりませんでした。
レンズ スーパーアナスチグマット7.0cm F4.5
鏡筒外観は黒塗装仕上げ
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2016年03月20日追記
(注20)
日本カメラ博物館
常設展示機「歴史的カメラ」(オリジナル外観)による実機確認
Super Anastigmat 1:4.5 f=7.0cm
レンズシリアルナンバーNo.5740
西田光学精機製作所製
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(アサヒカメラ昭和13年6月号の広告のみ
レンズは U.L.L 75mm F4.5)
シャッター 梅本製作所内製 二枚羽根バリオタイプ
B、1/25、1/50、1/100
シャッターダイヤルは、黒仕上げ
マウント スクリューマウント(独自規格)による交換式
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2014年04月01日追記
実機検証により改編。交換レンズについての文献/実機は未発見
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2016年03月20日追記
(注20)
日本カメラ博物館 特別展
「ベビースーパーフレックス」の展示によれば
「ネジマウントによるレンズ交換式となっているが、
交換レンズは発売されなかったようである」と記載。
価格 49圓 (昭和13年5月)
(同年のアサヒカメラ4月号に予告広告があり、
価格は「五拾圓以下」となっています)
(速写ケースあり 価格不明)

本機は
一般財団法人 日本カメラ財団に設置の、
歴史的カメラ審査委員会選定の「歴史的カメラ」に選定されています。

日本カメラ博物館に常設で展示されているようです。

また
国立科学博物館に設置の産業技術史資料情報センターで、
前記日本カメラ博物館所蔵の展示機の写真をみることができます。
リンクはこちらです。


・本機の名称について
本機のボディ表記と英名は「SUPER FLEX BABY」で一貫していますが、
広告のカタカナ表記は統一されていません。
昭和13年(1938年)は 「ベビースーパーフレックス」
昭和14年(1939年)は 「スーパーフレックス」
昭和15年(1940年)は 「スーパーフレックス」
昭和16年(1941年)は 「ベビースーパーフレックス」
昭和17年(1942年)は 「スーパーフレックスベビー」  です。
本稿では、上記した、
歴史的カメラ審査委員会選定の「歴史的カメラ」で用いられている、
「ベビースーパーフレックス」を用いることとします。

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◆2006年に運よく「ベビースーパーフレックス」を入手することができました。
   一言でいうと、とても 「かわいらしい」 カメラです。

本機はレンズマウント部分のみ黒革のオリジナル外装を持ちます。

梅本製作所ベビースーパーフレックス1  梅本製作所ベビースーパーフレックス2  梅本製作所ベビースーパーフレックス3

梅本製作所ベビースーパーフレックス4  梅本製作所ベビースーパーフレックス5

撮影のときには右上の写真のように、
ファインダーのスクリーンに被写体が左右反転像でうつります。

4×4センチ判で12枚撮影するために裏ぶたに赤窓が3つあります。
(127フィルムに4×4センチ用のナンバーが無かったため、
4×6センチ判用のナンバーを使ったようです)
左右の窓は奇数のみ、中央の窓は偶数のみとして、
以下のように読み取ります。(○部分は無視します)
1枚目)1○○
2枚目)○○1
3枚目)○2○
4枚目)3○○
5枚目)○○3
6枚目)○4○
 ……
11枚目)○○7
12枚目)○8○
この操作はかなりむずかしかったと思います。

このカメラの型式は、
シャッターが B、25、50、100 のクロームダイヤル、
(T タイムは後述するようにシャッター金具の下に付いています)
レンズはスーパーアナスチグマット65mm F3.2なので ⅢA型 です。

梅本製作所ベビースーパーフレックス6

レンズはスクリューマウントで、
この写真のように外れます。
スクリュー(ねじ)の寸法は
外径   30.54mm(1.2インチ)
ピッチ    0.635mm  (1インチ40山) です。
このスクリューマウントは、どうやら独自規格で、
後述するⅢ型と、ⅢA型に使われています。

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2016年03月02日追記
当初のモデルからスクリューマウントを採用していたと実機から判明しました。

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2016年03月20日追記
(注20)
日本カメラ博物館 特別展の表示により文献でも確認されました。
ただし、「交換レンズは発売されなっかったようである」とのことです。


梅本製作所ベビースーパーフレックス7

シリアルNo.は「6854」です。
裏蓋を開けたところに刻印してあります。


二枚羽根バリオタイプシャッターはレンズマウントのすぐ後ろにあります。
レリーズはボディの脇の逆L字形のシャッター金具を、
まっすぐ押し下げるようにして行ないます。
ストロークは15mm程度あります。
逆L字形の金具を押し下げると、
まず、シャッターが一度閉じつつミラーがゆっくりとアップされます。
シャッターはこのときチャージされます。
金具をいっぱいに下げきるとシャッターが切られます。
金具を放すとミラーは下がりシャッターが開きます。

Tのタイムは、
逆L字形のシャッター金具の下部にある、専用の「金具止めボタン」を押して行ないます。


・注
ベビースーパーフレックス(初期型),ベビースーパーフレックス(Ⅱ型)のシャッターには、
T(タイム)はありません。
またシャッター金具の形も上記と異なり
「レバー」形状で、その操作も 「まっすぐ押し下げる」 のではなく、
「レバーを90度ほど回しながら下ろす」方法でした。
なお、シャッターの位置は、全型式ともに「カメラボディの右手側」です。


速写ケースの上蓋の上面に、「SUPER FLEX BABY」と型押ししてあります。

このカメラ「ベビースーパーフレックスⅢA」型 が製作されたのは、
昭和16年(1941年)3月から昭和17年(1942年)3月までの間(推定)です。

ほぼ65年ぶりの里帰りになりました。

私はもちろんベビースーパーフレックスを手にするのははじめてのことですし、
父も「子供は工場に入るな!」と工場に入れなかったため、
ベビースーパーフレックスを手にするのははじめてだったのです。
シャッターも切れるので感慨もまたひとしおです。



梅本製作所代表的カメラ2台

2016年03月20日追記
梅本製作所の代表的なカメラ2台です。
写真左はスーパーマキネットシックス(B型?) 前記したボディシリアル番号「D301」の個体
写真右はベビースーパーフレックス(Ⅱ型) ボディシリアル番号不明
Adrien Rebollo 氏に、ご提供いただいた写真です。

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*昭和14年(1939年)06月 36歳 ベビースーパーフレックス(Ⅱ)
  (ボディ表記は SUPER FLEX BABY ) 完成

シャッターダイヤルの「クロームめっき仕上げ」に伴い型式が変更されました。(注5)
レンズ鏡筒と透視ファインダーも「クロームめっき仕上げ」のものが正式なⅡ型のようですが、
移行期にはレンズ鏡筒が黒仕上げであったり、透視ファインダーが黒仕上げのものも混在しています。

---
2016年03月20日追記
(注:20)
日本カメラ博物館
常設展示機「歴史的カメラ」及び特別展示機(共にオリジナル外観)との比較により
ボディ外装の革の色が、
初期モデルの「焦げ茶」から、
「黒」に変更されていることが判明しました。
つまり、Ⅱ型は外観の大幅な変更を行ったもののようです。


また、奇妙なことにこの時点では「Ⅱ型」とは呼んでいません。
後にⅢ型が発売されたときに「Ⅱ型は…」と呼んでいます)
昭和14年(1939年)の12月まで販売されていました。


*昭和14年(1939年)6月 ベビースーパーフレックス(Ⅱ)

ボディ アルミダイカスト製
---
2016年03月20日追記
外装 黒の革張り仕上げ
(注20)
日本カメラ博物館
特別展示機(オリジナル外観)により確認。
レンズ スーパーアナスチグマット70mm F4.5 
(レンズの焦点距離は、広告では後のⅢ型、ⅢA型まですべてセンチ表示ですが、実機のⅡ型以降は一部の例外を除いてミリ表示です)
マウント スクリューマウント(独自規格)による交換式
価格 65圓 (昭和14年6月)

同 速写ケース

価格 7.5圓 (昭和14年6月)

時期が前後しますが、昭和14年(1939年)2月に
ベビースーパーフレックス(初期型)の価格が改定されています。
このときに、透視ファインダーは「クロームめっき仕上げ」になっています。
この3ヶ月後の昭和14年(1939年)6月から、
前記ベビースーパーフレックス(Ⅱ)型に移行したと推定されます。

・ベビースーパーフレックス(初期型)

価格 58圓 (昭和14年2月)

同 速写ケース

価格 7圓 (昭和14年2月)

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*昭和15年(1940年)03月 37歳 ベビースーパーフレックスⅢ
  (ボディ表記は SUPER FLEX BABY ) 完成

シャッターの変更に伴い型式が変更されました。(注6)
後述する「ⅢA」型と共に、
少なくとも昭和17年(1942年)3月まで雑誌広告が確認されています。
その後も販売を継続した可能性があります。(詳細は後述します)


*昭和15年(1940年)03月 ベビースーパーフレックスⅢ

レンズ スーパー・アナスチグマット70mm F4.5
マウント スクリューマウント(独自規格)による交換式
シャッター T、B、1/25、1/50、1/100
価格 78圓 (昭和15年4月)

この昭和15年(1940年)に、
「奢侈品等製造販売規制」や「経済新体制確立要綱」が大日本帝国政府から発布されました。(注7)
それによりカメラの価格統制も厳しくなって国産カメラには公定価格(マル公)が定められました。

---
2016年03月20日追記
時期は不明ですが、
金三郎がベビースーパーフレックスのレンズを、
これといったツテも無いのに、
日本光學工業(現:株式会社ニコン)につくってもらおうと掛け合ったという逸話があります。
前後関係からこの頃かと推定します。
精機光學研究所(現:キヤノン株式会社)製の
いわゆる「ハンザキヤノン」
標準型ニッコール50mmF3.5付きが、昭和16年(1936年)2月発売です。
更に日本光學工業は、本業の海軍の軍需製品が
昭和16年(1941年)5月 -九九式狙撃銃・短狙撃銃用九九式狙撃眼鏡完成
倒分像立体視式十五米二重測距儀完成、戦艦大和に搭載
などでそれどころではない状態だったはずです。
それにしても、当時の祖父金三郎の行動力には驚かされます。

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*昭和16年(1941年)03月 38歳  ベビースーパーフレックスⅢA
   (ボディ表記は SUPER FLEX BABY ) 完成

レンズの追加により、型式が変更され「ⅢA」型となりました。(注8)
「Ⅲ型」と共に、昭和17年(1942年)の3月まで雑誌広告が確認されています。
その後も販売を継続した可能性があります。(詳細後述)


*昭和16年(1941年)03月 ベビースーパーフレックスⅢA

レンズ スーパー・アナスチグマット65mm F3.2
マウント スクリューマウント(独自規格)による交換式
※これで公式に65mmF3.2のレンズと、
70mmF4.5のレンズを交換して使用できるようになりました。
シャッター T、B、1/25、1/50、1/100
価格 88圓  (昭和16年3月)

・ベビースーパーフレックスⅢ
 価格改定

価格 77圓 (昭和16年3月) マル公価格
当初より1圓安くなっています。この価格が「公定価格」(マル公)で、「国産写真機の公定価格」の「格付表」の一類七号に該当し決定されました。 

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*昭和16年(1941年)11月 38歳  セミマキネットⅡ,ⅡA 完成

アルミニュウムは軍需物資なので材料の調達が困難になったらしく、
鋼板プレス製のボディのスプリングカメラ「セミマキネット」を製造しました。
暿光堂から発売されました。(注9)


*昭和16年(1941年)11月 セミマキネットⅡ,ⅡA

形  式 蛇腹式スプリングカメラ
フィルム 120フィルム
画面サイズ 4.5×6cm
レンズ ウエスター75mm F4.5  (Ⅱ型?)
ウエスター75mm F3.5  (ⅡA型?)
シャッター レンズシャッター ノースタⅠ T、B、1~1/200
ボディ 鋼板プレス製
価格 121、160圓(推定)

昭和16年(1941年)1月発行の「公定価格」の格付表(注8)には登録されず、
同年11月の「公定価格」の格付表(注9)には、
「セミマキネットⅡ型」と「セミマキネットⅡA型」が登録されています。
(Ⅱ型が三類六号(ロ)に、ⅡA型が三類七号(ロ)に登録)
ですから、この間に新発売されたものと推定できます。
価格は不明です。

もし、公定価格が同年1月発行の格付表(注8)のままであれば、
三類六号(ロ) の Ⅱ 型 は 121圓
三類七号(ロ) の ⅡA型 は 160圓 の、マル公価格です。
(当時物価は上昇していたので、安くなることはないと思われます)
スペックに対してかなり高価な気がします。
(六号より七号のほうが高価なので、
七号のⅡAが、より明るいF3.5のレンズをもつと考えました)

セミマキネットⅠ型があったのかは不明です。
ボディ,レンズ,シャッターの詳細は、
後述する「国産寫真機ノ現状調査」(注14)によっています。

なお、本機の広告や現物は発見されていません。


この昭和16年(1941年)初頭から「経済新体制に関する法律」が実施されました。(注10)
それによりカメラの製造は原則的には禁止されています。
しかし、「手持ち材料のあるものは差し支えなし」だったようで、なんとかしのいでいたようです。

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・昭和16年(1941年)12月8日 38歳 アジア太平洋戦争宣戦布告

戦争の勃発に伴い、
梅本製作所は軍需用の光学機器などを製作することになります。

父 英夫の記憶によれば、
「20cm四方のアルミの箱のようなもの」を製造していたとのことです。
航空機用の光学部品でしょうか。
他に父の記憶(当時6歳)では「戦車用? の距離計」なども生産していたようです。

下に記載するように、
当時、梅本製作所は「海軍航空技術廠」の管轄下にあったため、
大日本帝国海軍の航空機用軍需部品(光学照準器か?)を
生産していた可能性が高いと考えられます。

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・昭和17年(1942年)3月 39歳 価格改定
  同年 5月 カメラ生産の原則禁止

・ベビースーパーフレックスⅢ、ⅢA 価格改定 (注11)

・ベビースーパーフレックスⅢ

価格 90圓 (昭和17年3月) マル公価格

・ベビースーパーフレックスⅢA

価格 102圓 (昭和17年3月) マル公価格

同 速写ケース 

価格 9.25圓 (昭和17年3月) マル公価格

価格が当初の倍ほどになっています。
これには、物品税の高騰もかなり影響していると考えられます。(注12)
昭和12年(1937年)に戦費調達のために創設された「物品税」は、
当初の
昭和12年08月 12%から、
昭和13年03月 15%、
昭和15年03月 20%、
昭和16年11月 50%、
昭和18年01月 80% となっていき、
昭和19年2月には120%にも達しています。


この昭和17年(1942年)5月に「企業整備令」が発布されました(注13)。
これにより、以後 カメラの生産は軍需用以外には「原則的に禁止」されました。


ベビースーパーフレックス広告

2016年03月20日追記
(注11)
『報道写真』昭和17年(1942年)3月号掲載の広告です。
現在掲載時期が確認出来る範囲では、これが戦時中最後の広告になりました。


ベビースーパーフレックス広告

2016年03月20日追記
(注11,注13)
掲載時期,掲載誌不明の広告です。
価格が前記『報道写真』昭和17年(1942年)3月号の広告と同じですから、
同時期とおもわれます。
画面右側で新機種の予告広告(梅本製作所製では無い)をしています。
『アサヒカメラ』誌が、
戦時統制により昭和17年(1942年)4月号をもって休刊していますから、
カメラ専門誌の昭和17年(1942年)4月号までに掲載されたはずです。

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・昭和18年(1943年) 40歳 國産寫真機ノ現状調査に登録 

商工省の指令によって商工省機械試験所の精密機械統制会は、
昭和18年(1943年)04月写真機を登録制にしました。

商工省機械試験所は、
昭和18年(1943年)11月01日に所管が変更され軍需省機械試験所になります。
その軍需省機械試験所が昭和19年(1944年)に出した報告書
「國産寫真機ノ現状調査」に、
梅本製作所の「セミマキネット」が製品としてその銘柄を登録されています。


注14,22 の文献の記載を引用します。(昭和18年は1943年)
---以下引用---

第2表 製作者表 昭和18年9月10日現在(引用注:昭和18年4月現在の文献もあるようです)
製作所名「梅本製作所」
製作所略称「梅本」
住所「東京都城東区亀戸町3ノ84」(引用注:原本旧字記載/現:東京都江東区亀戸3丁目)
機名「セミマキネット」
製造者略称「梅本」
販売元略称「暿光堂」
---引用終わり---
と記載されています。

◆この文献は、
戦前・戦中の「梅本製作所がカメラを製造していた」
ことを示す唯一の「文献」です。
「梅本製作所が製造」し
「暿光堂」が販売していたことがはっきりと記されています。
この点で、「梅本製作所の歴史」を編纂するにあたって大変重要なものだと考えます。


2018年06月05日追記 (注21,22)
※「國産寫真機ノ現状調査」の原本の一部、梅本製作所の記載部分が、
日本カメラ博物館 特別展「世界を制した日本のカメラ~もうひとつの日本カメラ史~」
で展示されました。
原本の写真はこちら↓の記事で参照できます。
カメラファン 銀塩手帖
日本カメラ博物館 特別展「世界を制した日本のカメラ~もうひとつの日本カメラ史~」
photo & text 中村文夫 先生

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・「國産寫真機ノ現状調査」についての考察

さて、前年の昭和17年(1942年)5月に発布された「企業整備令」によって、
カメラの生産は軍需用以外には「原則的に禁止」されているはずです。
しかし、「國産寫真機ノ現状調査」によれば、
「昭和18年(1943年)4月現在に製品として銘柄を登録」されていることになっています。
この両者は明らかに矛盾しています。

参考文献(注15)によれば、日本のカメラの総生産台数は、
昭和15年   約22万台
昭和16年   約20万台
昭和17年   約13万台
昭和18年   約5.5万台
昭和19年   約2.5万台
昭和20年   約1万台
で、「原則的に禁止」以降も生産が行われています。

「企業整備令」の「原則的に禁止」というのがポイントでしょう。
『「原則」に沿わないカメラ生産を各社が行っていた』 のではないでしょうか。
「禁止」されているものを、国家命令で「調査」するはずはありません。
(カメラには高額な「物品税」が課税されていたことにも注目すべきでしょう)


2018年06月25日追記
また、昭和18年(1943)11月1日、商工省と農林省を廃止して、軍需省と農商省を設置。
繊維産業や日常生活物資は農商省の所管となり、
それ以外のいわゆる工業製品は軍需省所管になりました。
それにより写真機の所管が当初の商工省から軍需省になったため、
軍事物資扱いになっていた可能性もあります。

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ベビースーパーフレックスの新規の生産も、あるいは継続していた可能性があります。

前記「國産寫真機ノ現状調査」に奇妙な機種名があるからです。
整理番号125 スーパーレフⅡ型
整理番号126 スーパーレフ
がそれです。
原典の写真機名の表の当該箇所近辺が欠落しているので、
機名,レンズ,シャッターのみがわかります。
機型(蛇腹、箱型などの別)、サイズ、製造者略称、販売者略称は不明です。

レンズは西田光学精機製の 名称「スーパー」
スーパーレフⅡ型用  65mm F3.2 3枚玉
スーパーレフ用     65mm F3.5 3枚玉
シャッターは 名称「スーパー」 (製造者不明)
バリオ型 25ー100、B (スーパーレフⅡ型、スーパーレフ 共通)
です。
(レンズの焦点距離やF値に誤記があるかもしれません)


さて、戦前のカメラで名前に「スーパー」がついてかつ「レフ(レックス)」のカメラは、
ベビースーパーフレックスだけです。
レンズの名称も、
「スーパー(アナスチグマット)」でベビースーパーフレックスのものと一致。
シャッター形式も、
「バリオ型」で一致します。
(Tのタイムは、もともとボデイ側で持っています)


資料の欠落がなんとも惜しいのですが、
このカメラは「ベビースーパーフレックス」なのではないでしょうか。
ベビースーパーフレックスは「終戦直前まで生産が続けられた」という文献もあります(注16)。

もし、文献のレンズの「スーパーレフ用 65mm F3.5」が、
70mm F4.5の誤記であるならば、
整理番号125 スーパーレフⅡ型 は、 ベビースーパーフレックスⅢA型、
整理番号126 スーパーレフ    は、 ベビースーパーフレックスⅢ型と、
それぞれ完全に一致します。

後述する、東京大空襲による工場焼失の後、
「焼けて溶けたカメラボディなどのアルミ塊がかなりの量あった」そうです。
すると昭和20年(1945年)3月10日の時点で、
相当数の在庫を持っていたと思われます。
やはり、「終戦直前(2月頃)まで生産が続けられた」のかもしれません。


カメラはアルミなどの軽金属を使用しているので、一般には「供出」が行なわれたようです。
しかし梅本製作所のカメラの「供出」は行なわれませんでした。
理由は不明です。 
(あるいは販売させて「物品税」が欲しかったのかもしれません)

---
2016年03月02日追記
都市爆撃が行われる恐れが高かったため、カメラを「疎開」させようと税務署に掛け合ったようです。税務当局は「物品税を支払え」の一点張り。「疎開であって販売ではない」と言っても聞く耳を持たず。
そうこうしているうちに後述する焼夷弾による無差別爆撃で工場もろとも全焼失しました。
税務当局に「だから言ったじゃないか」と言っても馬耳東風であったと伝え聞きました。
したがって、アルミボディのカメラを多量に製作してあったのは間違いなく、製造時点は特定できないものの、少なくともベビースーパーフレックスの在庫はあったことになります。


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2016年03月20日追記
●シャッターについての実機検証の結果と推定

Ⅱ型のボディシリアルナンバー3655機(レンズ 1:4.5 f=70mm No.22052)の
・レバー形状で、90度ほど回しながら下ろす方式のシャッターフィーリングと、

ⅢA型のボディシリアルナンバー5899機(レンズ 1:3.2 f=65mm No.20523)及び
写真前掲の
ⅢA型のボディシリアルナンバー6852機(レンズ 1:3.2 f=65mm No.5342)の
・逆L字形の金具をまっすぐ押し下げる方式のシャッターフィーリングとを比較しました。

すると、タイム(T)の無いレバー式のⅡ型のほうが、
はるかに操作しやすく、心地よいものでした。
一見改悪ともとれるこの設計変更には疑問が残ります。

これは推定なのですが、
レンズ交換式一眼レフカメラであれば、中間リングを着ければ接写カメラに、
適切なアダプターを着ければ顕微鏡撮影にも使える可能性を持ちます。
特に顕微鏡用カメラであれば、タイム(T)は必須です。
(戦後に接写に使った例はみたことがあります。現在リンク切れ。顕微鏡は未検証)

・Ⅲ型の上市が開戦前年の昭和15年(1940年)であること、
・「奢侈品等製造販売規制(昭和15年(1940年)」や
 「経済新体制確立要綱(昭和15年(1940年)」が大日本帝国政府から発布さる
を踏まえれば、
ボディにタイム(T)機構を追加し「軍需用カメラ」と称して、
その実、民生用のカメラを設計/製作したものかもしれません。
そうとすると、それは暿光堂の発意だとおもいます。
すると、「経済新体制に関する法律(昭和16年(1941年)」,
「企業整備令(昭和17年(1942年)」にも抵触しません。
更に前述した「敗戦直前まで生産継続」も、納得できます。

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・昭和20年(1945年)3月10日 42歳 東京大空襲により工場焼失

この夜、東京の下町を襲った米軍の空襲で工場は全焼しました。


父 英夫は、前年秋から学童疎開で山形県にいて無事でした。
(小林信彦著『一少年の観た〈聖戦〉』によると、当時城東区(現江東区の東側)の学童は、
山形県に集団疎開させられました)

祖父 金三郎は、都電柳島車庫の消火活動にあたっていましたが、猛火に包まれ消火を断念し、
「北十間川の堤防に川の側から掘った、焼けなかった防空壕」に逃げ込み一命をとりとめました。

祖母や伯母、叔父たちは近くの天祖神社の社(鉄筋コンクリート製)に避難し助かりました。
社に待避した後でも全員死を覚悟し「英夫が(一人で取り残されて)かわいそうだ」と話したと、
伯母にうかがいました。


しかし、工場は爆撃開始からわずか20分で火の手が入り、またたくまに全焼してしまいました。

工場も、家も、カメラを製作する専用工具も、数百台(と推定される)カメラも、思い出の写真も、
すべて焼かれてしましました。
ですから、戦前のカメラやその記録は残っておりません。


唯一残った書類は前掲写真の借地権の謄本です。
当時借地だったため、
建物が焼失すると借地権が消滅してしまうため、
せめてもとおもい謄本を持って逃げたのでしょう。
また、前掲玄関先での写真は、祖母の実家に送ってあったのを戦後にいただいてきたものです。

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・昭和20年(1945年)4月 42歳 梅本製作所
  山形県山形市に疎開 

東京大空襲により東京での工場の操業を断念し、工場を山形県山形市七日町に疎開させました。
そこでは農機具の部品などを製作していました。
東京の工場全焼からわずか一月半後には山形の工場が稼動しています。
ただし、この山形工場の時代にはカメラを生産することはありませんでした。

写真は、第一海軍技術廠
昭和20年2月15日海軍航空技術廠から改称)による、
被災したけれどもなんとか動く機械の移動証明書です。

梅本製作所 移動証明書

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・昭和20年(1945年)8月15日 42歳 敗戦

永かった戦争は終わりました。
金三郎以下家族全員は敗戦を疎開先の山形で知りました。
それ以降の数年間は山形工場で農機具の部品などを製作しつづけることになります。

ここで、敗戦までに梅本製作所が作ったカメラを、
発売年,モデル名,当初の価格でまとめてみましょう。

昭和11年 スーパーマキネットシックス A型 65圓
昭和11年 スーパーマキネットシックス B型 58圓
昭和12年 スーパーマキネットシックス 普及型(D型) 46圓
昭和12年 ノイレシックスA型~D型 (都合6型式) 90圓~43圓
昭和13年 ベビースーパーフレックス 49圓
昭和14年 ベビースーパーフレックス (Ⅱ) 58圓
昭和15年 ベビースーパーフレックス Ⅲ 78圓
昭和16年 ベビースーパーフレックス ⅢA 88圓
昭和16年 セミマキネット F4.5 (Ⅱ?) (121圓?)
昭和16年 セミマキネット F3.5 (ⅡA?) (160圓?)

以上、9年間(戦中の混乱がありますから実質8年間)で、
スプリングカメラ3機種11モデル、
一眼レフカメラ1機種、4モデル、
合計4機種、15モデルでした。

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2016年03月02日追記
当初のスプリングカメラ『マキネットシリーズ』の総生産台数は各型式を通じて、
1500台程度以上あり、
また『ベビースーパーフレックス』の総生産台数は各型式を通じて、
6000~7000台であったようです。
これは現存する実機のシリアル番号から推定しました。
実機の発見できない『セミマキネット』シリーズは生産台数不明です。
したがって、戦前戦中に梅本製作所が製造したカメラの総台数は、
7500~8500台以上と推定できます。
月産にすると100台弱程度ですから、
梅本製作所の工場の限度いっぱいといった感じだったかとおもいます。

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・昭和23年(1948年)春 45歳 帰京

前年の秋ごろから東京に戻る準備をはじめ、
父 英夫の小学校卒業に合わせて東京都江東区亀戸に戻ってきました。
工場は機械もあるので比較的ちゃんと建てたのですが、
住まいは「三畳と四畳半のバラック」だったそうです。

金三郎は、
自分でカメラを作る希望をもちつつ、他社のカメラ部品の仕上げの仕事などをしていました。

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・昭和25年(1950年) 47歳 朝鮮戦争勃発

いわゆる特需のため、この小さな町工場にもまた軍事関係の仕事が進入してきました。

金三郎はこのころから本格的にカメラ製造復活の準備をはじめます。
そして、カメラの設計や金型の加工などを徐々にすすめていきました。

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*昭和28年(1953年) 50歳 ロッキーセミ 完成

4.5×6判のスプリングカメラ
「ロッキーセミ  ( ROCKY SEMI ) 」 が完成しました。(注17)

父の記憶では、
昭和28年(1953年)父が 「18歳のときに、ロッキーセミはできた」 とのことです。
しかし、それに該当する文献は発見されていません。
少なくとも一度はカメラ誌に広告され父がそれを確認しています。
ただし、その文献は紛失しまた誌名も失念しています。

注17の文献は広告ではなく「臨時増刊スプリングカメラ全書」なので、
発売年号の証拠にはならないように思われます。
父の証言は信用できるので、ここでは昭和28年(1953年)完成とします。


ブランド名は「梅本光機製作所」でした。
自社ブランドだったのです。
「梅本製作所」では何のメーカーかわからないのでそうしたのでしょう。
当時「梅本製作所」は、まだ法人ではありませんでした。

昭和28年末頃にスポット的に販売されたものと推定されます。


「エンドー写真用品株式会社」 を通して小売店に販売されました。

・父は、『問屋は「遠藤写真」(漢字で「遠藤」)で、
東京の京橋あるいは新橋にあったように思う』と言っています。

昭和27年(1952年)まで東京都板橋区板橋5丁目892番にあった
「合資会社遠藤カメラ店」が、
昭和28年(1953年)6月に「エンドー写真用品株式会社」と改組・商号変更し、
東京都中央区京橋3丁目7番地に移転しています(注18)。

注17 参考文献164頁711番、
同社の「ピジョン35」の広告に、
「エンドー写真用品株式会社(旧遠藤カメラ店)」との記載があります。
上記の理由で父は、
京橋の「エンドー写真用品」のことを、
「遠藤写真」と「漢字」で記憶してしまっているものと思われます。


*昭和28年(1953年) ロッキーセミ( ROCKY SEMI )

形  式 蛇腹式スプリングカメラ
フィルム 120フィルム
画面サイズ 4.5×6cm  フィルム送りは赤窓式
ボディ 鋼板プレス製
レンズ ロッキー75mm F3.5 (製作者不明)
シャッター レンズシャッター MSK  B,1~1/200 セルフ、シンクロ付き
(芝山光機製作所製)
価格 8300円
(価格は父が、東京都台東区の「松屋デパート浅草店」で見て記憶していました)

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◆社内で発見された、
  「ロッキーセミ」のものと思われるレンズ・シャッターの写真を掲載します。

梅本製作所ロッキーセミ レンズ1  梅本製作所ロッキーセミ レンズ2

戦後に梅本製作所が作ったカメラはこの「ロッキーセミ」だけです。
スプリングカメラ用と思われるレンズ・シャッターが小箱に入って残してありましたので、
「ロッキーセミ」のものと考えないと説明できません。
また、父の記憶でも「このレンズだった」とのことです。
レンズのシリアルナンバーがNO.1347とNo.1349なので、
同一の時期に製作されたものと思います。

レンズ名が NITSUKO(日通光の意か?) Anastigmat 7.5cm F3.5 となっています。
おそらく製品では、
レンズの名称のみを「ROCKY」と変更して使用したものと推定されます。
なお、製品のシャッターは、写真左の「MSK」のものを使用していました。


◆さらに社内の捜索をしたところ、
「ロッキーセミ」のボディのみが発見されました。
上記の「レンズ・シャッター」が小箱に入って保管されていたのに対し、
「ボディ」は裸のまま「おもいでのカメラ部品」と書かれた木箱に入れてしまってありました。

梅本製作所ロッキーセミ ボディ1  梅本製作所ロッキーセミ ボディ2

鋼板のプレス製で表面には黒色の塗装がしてあります。
ボディのサイズは、ちょうど4.5×6cmの「セミ判」の大きさです。
父もこれが「ロッキーセミ」のボディであると断言しました。
また、参考文献(注17)の形式とも一致します。

金型や部品は生産終了後しばらくしてから、すべて廃棄してしまいました。
でもこのボディを一つだけ、捨てるに忍びなくとっておいたのでしょう。

金三郎の夢だったカメラの生産が、初の自社ブランド品としてここにようやく実現しました。


梅本製作所ロッキーセミの広告

左の写真は、
昭和29年(1954年)5月15日研光社発行
「フォトアート臨時増刊スプリングカメラ全書」の記事です。
注17の参考文献:朝日新聞社刊
「昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史」で引かれているものです。

ついにロッキーセミが姿を現しました。
上記したレンズ・ボディは
明らかにロッキーセミのものであるとわかります。
製造元「梅本光機製作所」
定価¥8,300-とあります。

2018年06月25日追記
ロッキーセミの実物が米国で発見されました。
写真のみですが確認できました。
詳細は以下のとおりです。

・機体 シリアル番号は無しまたは未発見
・レンズ ROCKY Anastigmat 1:3.5 F=75mm No.2011
・シャッター MSK B,1,2,5,10,25,50,100,200
・ボディの皮部分に「ROCKY」の型押しあり
で、
全体に上記の広告写真及び社内で発見されたプレスボディと整合します。


レンズは上に掲載してある写真の
「NITSUKO Anastigmat 7.5cm F3.5」と、
全体の形状、及び文字の書体や文字間隔が酷似しています。
シャッターは、掲載写真の「MSK」と同一のものとおもわれます。

軍幹部は赤さびの発生が無いからおそらく真鍮に梨地のクロームめっき仕上げ。
巻き上げノブの付近に手でさわった結果できたとおもわれるスレがあります。
軍幹部上のアクセサリーシュー前方に、
「Rocky」と筆記体で彫刻され墨が入っています。
ファインダーは逆ガリレオ型のようです。
レンズの前蓋は革張り一部クロームめっき仕上げで、
材質は不明ですが赤さびの発生が無いので真鍮かもしれません。
レンズを支持するたすき部分はクロームめっき仕上げで、
一部赤さびが発生しているから鋼板製とおもわれます。


全体から受ける印象は、
ある程度使用され、以後大切に仕舞ってあった感じで、状態のよい個体です。


子供の頃に工場で遊んでいて、
真鍮の無垢から削りだした小さな四角形の部品を見つけました。
「あれはロッキーセミのアクセサリーシューだったのか!」と、
この記事書いていて、今気づきました。


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・「ロッキーセミ」と「セミマキネット」の関係

さて、昭和16年完成の「セミマキネット」は「鋼板プレスボディ」でした。
すると見えてくるものがあります。
それは、
『 「ロッキーセミ」 は 「セミマキネット」 の生まれ変わりではないか 』 という仮説です。


ここに興味深い父の証言があります。
「焼け出されたときに、直せば使えそうな大きな(ボディの?)金型があった。
それを山形に持っていったので憶えている。(父当時10歳)
「ロッキーセミ」はその金型を修理し使用して作ったはずだ」というものです。
この証言は信用できると思います。

これで、事態がかなりすっきりします。
つまり 、「ロッキーセミ」 は
『 「セミマキネット」の「鋼板プレスボディ」 を作った金型を修理して、
また、小さな部品の金型は新しく設計製作して、
全体を改良設計・製造したカメラ 』 だったのではないでしょうか。

すると、もはや「時代遅れ」に近いセミ判スプリングカメラを、
昭和28年に製作した理由も納得ができます。


それでもずいぶん無理をして設計したようです。
なんとか流用できたのは「ボディ」のプレス金型のみ。
大部分の部品はすべて新しい金型を製作してつくりました。
ボディの金型を修理して使用しても、
削減できた金型費用はせいぜい3割位だと推定されます。


しかし、すでにセミ判スプリングカメラの時代は終わっていました。
ですから、このカメラは商売としては「失敗」でした。
(広告もほとんどされませんでした)


・当時いわゆる「四畳半メーカー」と呼ばれた、
小規模なメーカーが多数存在していました(注19)。
それらの「四畳半メーカー」は、
レンズ・シャッターはもちろん、
ボディや小部品に至るまで (ボディですら、売っていたのです)
「購買品」ですませ組立だけしていたようです。
それでも一応の商売にはなっていたのです。


なぜ金三郎が潤沢とはいいがたい中から資本を投下して新たに金型を起こし、
「新型」のカメラを作ったのかは今となっては推測するしかありません。

孫の私の贔屓目もあるのかもしれませんが、
祖父 金三郎は「『自分のカメラ』がつくりたかった」のではないでしょうか。


このページの一番上の金三郎の写真は、この「ロッキーセミ」で撮影されたものです。

しかしこの撮影に使ったカメラは、
その後同じ町内の方に売ってしまったために現在は手元にありません。

この「ロッキーセミ」を最後に、金三郎は二度とカメラをつくることはありませんでした。


そして「梅本製作所」は、
しだいに「写真撮影用品」の製作所になっていきます。


つづく・・・

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・参考サイト

https://camerapedia.fandom.com/wiki/Camerapedia

「梅本製作所」
    https://camerapedia.fandom.com/wiki/Umemoto

「スーパーマキネットシックス」「ノイレシックス」
    https://camerapedia.fandom.com/wiki/Super_Makinet_Six_and_Neure_Six

「ベビースーパーフレックス」
    https://camerapedia.fandom.com/wiki/Super_Flex_Baby

「セミマキネット」
    https://camerapedia.fandom.com/wiki/Semi_Makinet

「ロッキーセミ」
    https://camerapedia.fandom.com/wiki/Rocky_Semi

注 1 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 74,75,94,341頁
注 2 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 74,75,94,341頁
注 3 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 81,338頁
注 4 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 74,75、337頁
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(資料編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会 
昭和50年発行 49頁
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 87頁
注 5 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 75,337頁
注 6 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 75,341頁
注 7 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 87頁
注 8 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 75,108,109、337頁
注 9 参考文献
・CCN発行所 カメラ コレクターズ ニューズ 2000年7月号 27頁
「カメラの公定価格官報発表」昭和16年(1941年)11月
注10 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会 
昭和50年発行 89頁
注11 参考文献
ごちゃまぜ歴史写真/国産カメラ(リンク切れ)
注12 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 90頁
注13 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 89頁
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 477頁
注14 参考文献
・写真工業出版社 月刊写真工業 2002年8月号 110~117頁
写真考古学スペシャル 60余年前の国産カメラ調査報告発見
注15 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 90頁
注16 参考文献
・CCN発行所 カメラ コレクターズ ニューズ 1980年10月号
ベビースパーフレックス
注17 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 375頁
注18 参考文献
・朝日新聞社 昭和10~40年 広告にみる国産カメラの歴史
編者 アサヒカメラ編集部
1994年発行 163,164,165頁
注19 参考文献
・毎日新聞社 日本カメラの歴史(歴史編)
編者 日本写真機光学機械検査協会、歴史的カメラ審査委員会
昭和50年発行 108頁
注20 参考文献
日本カメラ博物館
常設展示機、
及び
特別展
100歳のカメラ業界人 田中政雄が選んだ古今東西カメラ100台
開催期間:2016年1月9日(土)~3月27日(日)
展示機,同図録
注21 参考文献
日本カメラ博物館
特別展
世界を制した日本のカメラ~もうひとつの日本カメラ史~
開催期間:2017年10月24日(火)~2018年2月18日(日)
展示品
注22 参考文献
カメラファン
銀塩手帖
日本カメラ博物館 特別展「世界を制した日本のカメラ 〜もうひとつの日本カメラ史〜」
公開日:2017/11/08
photo & text 中村文夫



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